何かモノを言うとき、個人の顔が見えない場合(例えば大企業とか国とか自治体とかの組織体)や、個人でも所謂権力者(そのポジションとして見ている)には、もう好き勝手言えます。
ときにボロクソに。ときに悪意のある(悪意を感じさせる)ように。
あと僕はあんまり言わないですが、犯罪者とかに対してもそうですね。
たとえば、自分で書いたこんなのも、その一つ。
一方的に呆れているというか、バカにしている。こいつら何もわかってないと。たしかにそういう気持ちで書いたものです。
最近、それってとても恐い気がし始めました。
なんというか、組織や権力を批判しているつもりでも、組織にだって、そこに人がいる。そういう言葉が、その人たちを傷つけたり、ツライ気持ちにさせていることがあるんじゃないかと。その人たちだって、いろんな想いを持って仕事をして、暮らしてる。組織や権力を好き勝手批判するときって、そこまで考えられない。そもそも組織や権力の影に隠れてしまって、人の顔が見えていないし(いや、見ようとしていない、かな?)。だから、そこにいる人への、同じ人間、生活者としてのリスペクトがないんですよね。そこまで想像する必要があるのかって話もありますが、やっぱりそこまで考えられたら良いと思うのです。結局は人なんだと。そこに歩み寄るというか、そんな感じ。それがないと平行線なんじゃないかなあと。
あと、そういう時、大抵「自分が正しい/正義だ」と思い込んでいるような気がします。そこには対話の余地はないでしょうね、きっと。お互いに聞き耳を持たなくなる。
例で挙げた自分のエントリも、あの警察の人たちにことなんてどうでも良いと思っていた。たしかにやっていることはヒドいとは思うのだけど、その気持ちの表し方に、歩み寄るなんてものは感じられない。タコとか言われて、その人はどう思うか。その家族は、友だちは、どう思うか。その対象が自分だったらどうか。
そんなことを思い始めてから、そういえば森達也の「A」を見た時に同じように思ったことを思い出しました。
報道を見ていると、オウムみたいな犯罪集団にいるやつらはモンスターみたいに違いない、、、。そんな風に思っている人が多いと思いますが、一人一人はとってもフツウの人なんですね。いろいろ悩みも持ってるし、僕なんかとほとんど変わんないです。森達也がそういう風に切り取っているせいかもしれませんが、フツウに見えることは間違いないんです。
森達也がいつも「あっちの気持ちもわかる。でも、こうも思ったりもするよなあ…」と、どっちつかずの言葉をウダウダと並べてるのは、人の顔を見ようとしている、そういう想像力があるからなんだと思います。そのはっきりしない感じがイヤな人もいるだろうけど。
多くの人はそういう想像をしないから、一方通行で、そして小沢健二の言う「灰色」が生まれるんじゃないだろうか。「灰色」は自分たちの中で作られるんだろうなあ。なんて思ったりしている。まだ、よくわかんないけど、結局自分に返ってくるんじゃないかと。
「言葉は人を傷つけるためのものではない」と佐藤松義先生は言っていたけど、そうなんだなあと、ちょっと実感している今日この頃。
こういう風に思うようになったのはヨガのせいなのか、たまたまなのか。多少年をとったせいか。
いずれにせよ、そう思っていることには間違いない。
一見ナイーブな言葉は、非常に具体的で必ずしも容易でない世界経験から生まれてくる。(ヴァーツラフ・ハヴェル)
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父と一緒に山に登った仲間が滑落して、怪我をしたみたい。報道(ネット新聞)によると、父が連絡係となり、ヘリを呼んだようだ。
怪我をした方は大事には至らなかったので何より(怪我はひどいみたいだけど、命は大丈夫ということで)。父もまだまだ元気だが、こういうことがあると、いろいろ心配ではある。